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From ground to sky Oh,tomato!
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ただ単に難しく考えてしまってるだけなのか無駄な想像力が過ぎるのか、やっぱり最初っからわかんないんだよね、もうここの時点で。自分のことが一番わからないとは良く言ったものです。いや、言った人と同じ経緯でこの言葉に辿り着いたかどうかはわかんないけどさ。
一つの事例としてまずその結論だけ言うと、私は簡単に人を嫌うことはない人だと思う。けど、そこでどうしてそうなったかという話。結論があればそれでいいのかもしれんが私はどうにも過程がはっきりしないとすとんとしない人間なんだよね笑。ここで考えてみればたくさん思いついてしまうんだよ。自分が嫌われたら悲しいから自分は人を嫌わないだとか、誰が痴態を曝そうがどうでも良くて気にしてないだとか、その人の気持ちを想像するとしみじみとなって逆に好きになったりだとか。考えれば考えるだけその結論に至る過程が思い浮かんでしまってどれが自分に当てはまるのかがわからない。有り得そうなものを想像してるわけで、どれが当てはまってもおかしくない気がしてしまう。だから本当に自分がどうしてそう思っているのかがどうしてもわからない。どーんと考えてしまうなら全部当てはまるってのが一番合ってる気がするけどね。時々にもよるし。たぶん人を嫌いにならなくなった初めの頃は嫌われたくないからだったと思うんだ。でも最近は特に本気でどうでもいいってのと、その人の気持ちを想像してってのが多いと思う。たぶん。でも、これだってはっきりとした答えはどうしても出てくれないんだよね。人を嫌うことに限らず。
一つの結論に対して色んな過程が思いついてしまう。こうだろなあ、でもこれもありそうだなあ、やっぱりこれもありか、と。もう数学みたいだ笑。とりあえず自分がどうしてそう思ったのかがわからなくて、自分のことはいまいちわからんなあという。他人のは結構はっきりするんだけど、なんでだろうなあ。色んなことを考えているうちに思考ばっかの人間になっちゃったからなんかな。もうちょい感情的な奴になりたいんだけど、どうすりゃいいのか・・・どうでもいいことだらけで参っちゃうよ。どうしても!って事柄が欲しい。忘れたらしい執着を思い出したい、もしくは新しく覚えたいのに。上手くいかんことだらけっすよチクショーンハクショーン。
でも、こうやって考えてることが話を書くのに役に立ってるってのもわかるんだよね。結果に対して色々思いつく、なんつーのか、こじつけの上手さ?まあいいやそういうことにしてしまえってような笑。
しかし時々自分の性分が鬱陶しくなったりもする。どうしてそうなったのかを一々説明しないと気が治まらなくて、そこまで言わんでもいいだろってところまでうだうだと書き連ねたりする。ここら辺が理系なのかと思うんだけどどうなんだろね?もう、ほぼ習慣として結果を見ると過程を想像しちまうよ。
色んな人が書いた話を読んでると、やっぱりそういうところが気になる。うだうだとした説明はなしに行動を描写してしみじみとなる話を書かれる人はいるんだよね。些細なところからなんだか、こう。でも私にはやっぱり良くわかんなくて、読んだあとですごい気がするんだけど具体的にどうすごいのかがわからない、そういうこともある。なんかすごい気がするっていうの。そういうサイトさんはお気に入りに入れちゃうんだけど、入れるだけでほとんど見ていないっていうことになってしまってる。どっちかというと、やっぱり良くわからないけどすごい話よりも、ありきたりだけど納得できる話のほうが好きだなあと思う。簡単なようで案外難しいと思うんだよね。読んでるとそこでそういう気持ちになるか?その行動に出るか?ってことが良くあるもんで、まあ私が捻くれてるだけかもしんないけど笑。私はすんなりと理解と納得が出来る、読んでてあれ?ってならない話が書きたいもんです。洒落ないヒロイン書いてる時点で既にズレてることは承知の上だけどね・・・チクショー住みにくい世界め!いいんだよそれでも好きだって言ってくれる人いるから!笑
だって良くも悪くも容姿なんてどうでもいいよ。美人が考えてることも不細工が考えてることも見た目だけじゃわかんないし、綺麗だなと思わないわけではないんだけど、やっぱどうでも良くて・・・うわ、また出たよどうでもいいって・・・。架空のキャラなら好き嫌いあるけど(えー)実在の人間にはそれだけじゃ大して何も思えない。生きてる人間ってそんなに単純じゃないんだもの。うだうだ。

もしかすると話を書いてて、色んな人物の心境を想像をしてるうちに私自身にも影響が出たのかなと思う。相乗効果もあるかな、私が書いた人物に影響させて、書いた人物が私に影響させてる。結局は同じなんだけどそういうところがあると思う。考えてみれば断言しない私の言葉もそうだね、だと思う、かもしれない、もしかして、気がする、全部はっきりとしないところから素直な性格が出てるってことか。自分って見てみようとすればいつも霧がかかっててすっきりとしないんだ。感情というものが自身に素直にはっきりとしたものだろうに、それが薄れると良くわからん、なんか色々考えてるなってぐらいにしか。本当に、考えない人間に戻りたいわけじゃないけど、一喜一憂できる人間に戻りたい。
考えるとそうなるってわかってんだけどなあ・・・考えちまうことは考えちまうんだよね、どうしたものかー。思考と感情ってもしかして結構反対の位置にあったりとかするのかな?またこうして考えるとそんな気がしてきてしまんだよ、わかってんのになんか考えてしまうという・・・!意識することってややこしいよ、自分の考えから生まれてきたものは止められる場所がないんだよね。目にしたもの耳で聞いたものならそれについて思考するという過程があるんだけど、自身から出てきたのはそれだけで過程である結果として存在してしまう。自分が考えたものについて考える暇が欲しいよ、思ってしまった、までに考える暇が。これはさすがに無理だろうけどさ笑。でもそうすると更に感情的から遠ざかるような?目で見て気持ち悪いと思う前にそれが本当に気持ち悪いかについて考えてるわけで、更に考えること増やしたらどんどん無駄な思考が増えちまうんじゃ・・・。いやなんかほんと、ややこしいなこれ。馬鹿だけど馬鹿になりたい笑。

考えてた連載をやっぱ保留にしてネット断ちの終わりがなくなった現在。とりあえず書きたかったからこれ書いたんだけどどうしようかな、銀さんのは進めるつもりだけどあれ恐ろしく長くなりそうだしちょっと気が遠い。とりあえず週末には普通の日記書くことにしよ。
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人を諌めることってそんな簡単なことじゃないと思うんだよね。そりゃ要点としては駄目なところをこうしろって言えばいいだけなんだけどさ。それだけであって、それだけであってはいけないと思うんだよ。
何か起きてしまったとき、諌める立場にある事を起こされた人は相手から不平や不満を受けたことを自覚しなければいけない。腹が立った勢いのまま相手を叱る人が多すぎると思うんだよ、自分が怒っていると気付いていないんじゃないのかな。駄目だと言うのはもちろん良いことであるけれど、説教というのはそこに相手への不快が混じってしまえばその意味を損ねてしまうって。自分が不快を受けたと表現することもまたある種では大切。でも、起こした相手が少なくとも降下を辿った気分のところですることじゃないよ。その感情によって人によっては悪いことをしたと塞ぎ込むだとか、何でお前に言われなきゃいけないと反抗的になったりするかもしれない。このときの不快をというのは相手へもそのままの意味でしか伝わらないと思うよ、相手が普通の人でない限りほとんどの場合では。そして叱る際に自分が正しかっただろうという感情を含めるのもまた間違いだと思う。これもあまり深く考えない人が相手でない限りは相手によろしくない気分を与えると思うから。自分がやってしまって、私が正しかったでしょという口調で言われて、はいそうでしたあなたが偉かった、そんな人はほんとに数えられるぐらいしかいないでしょ。まあそれはそれで素敵だとは思うけどね、私はそうはなりたくないしならないなあと思うのよ。そんなこんなで、相手を叱るというのは難しいことだと思うわけ。自分が思っているよりもとっても難しいと思うよ。不快を感じているときに相手へ向けた口調にそれを出さないというのは。
生まれてきた不快をぶつけるのに起こした相手を使うのなら、やっぱりそれは人との関係を潰してる。どうでもいい人、嫌いな人、たとえそうだとしても違う方向でもっと堂々と出来ないのかな。正面きってお前が嫌いだって言えばいいと思うんだけど、やっぱりそれは意味がないのかなあ・・・ほんとに生き難い社会だね。誇るべきと憎むべきは人の感情ですなあ奥さん。本当に気の合う人と出会いたいものです、欲を言うならそれが宇宙人じゃなくて人間であればいいなあ笑。わかりやすく言い切れなかったけど、説教するときは自分の感情をしっかりと見据えて、そんな具体的なこととしては伝わってるといいなと思う。

自分の行動で相手にどんな感情が生まれるか、それはわかっていて動きたいものっすなあ。気付かないままっていうことはちょっとチャレンジャーなことではないかと思うよ。ちなみに悪くはないと思うんだよね笑。私はそういうのはたぶんぼちぼちとわかってるつもりで、そして相手が不安になるなどそこら辺をわかっていながらやるのがサドッ気があるところかなあって・・・サドっつーかもう単なる虐めですがね。いやそんな酷いこたあやらねえよ、だって私、ほんとにいい人だからさ。(お前は黙ればいい)
バイト先の同年代は馬鹿だったり賢かったりするけどそんな知識がどうであれ、やっぱり感情的、内面的なところで猪だなと思うばかりでさ。自分が人に飢えている気がするんです笑。
コメント返信しててふと思ったこと、そういえば前にちらりと考えたことがあるような気がする成長と退化は同時に起こるんじゃって話。どうでもいいんだけど、たぶん昔だったと思うけど思いついた切欠の一部は酸化と還元は同時に起こるってやつじゃないかなあ。笑
話の中で成長と退化の定義としては、大きくなった小さくなったそれだけじゃなくてそこから付随する具体的な影響も含めた考えで。んでもって退化の反対は進化らしいけどまあここは人間だし身近な感じで成長ってことにしておいて下せえ。

考えた切欠の一部は今もそうだしたぶん昔もそうだったと思う、大人を見て大人であるということに疑問を持つところから。極端に言ってしまえば子どもという言葉は幼稚に繋がって大人という言葉は賢いに繋がってるんだよね、私もそうだったようなそうであるようなだし、育ってきた過程でその意識が植えつかない人はほとんど居ないんじゃないかと思う。もちろん極端に固まった言葉で言ってるだけで意識的な面では基本的に子ども<大人でしょってこと。大きくなったら偉くなる強くなるというのは小さい頃から自然と思考に染み付く考えで、それはポケッモンであるとかそんな些細なことからもきっと影響される。だって進化したら強くなるし。たまに進化すると一部の能力が下がるやつとかいたんだよね、あれになんだよそれーって思ってたからそういうことだよね、大きくなると強くなるってのはほぼ考えの根っこだったわけよ。
まあ例えば背が高くなった。今の話の中じゃ大きくなりましたねはいおしまいじゃないから、もうちょっと具体的なことまで考えてみたりする。確かに高いところのものが取れるようになったりしたよ、でも低いところのものは取りにくくなったわけよ。腕の関係もあるからこれはちょっと例えが悪いかな・・・うん、高い視線で物を見れるようになったけど逆に低い視線では見れなくなった。そういうこと。しゃがんだらいいとも言えるけれど、自然に立っていて見るのと屈んで見るのとは全然違うはず。その人にはしゃがんでいるという意識があるんだから、それは元からその高さの人とは一緒には成り得ない。上手く言えんけどまあならないと、思う。あくまで私の想像だけど笑。
そんでから例えば言葉を覚えた。それを使って色々なことが表現出来るようになったしなかなか便利になったと思う。でも伝えるのが難しいのを必死でなんとかしようとしていた自分はもう居ないわけだよ、言葉を得たならば得ていないときの時間はもう有り得ない。使わず伝えようとするのも元から知っているのと知っていないのは全然違う、言葉は思考から出てくるから。絶対に表現した際の違いが出てきてしまうからそれはもう知ってしまった後の自分でしかない。だから得ても失くしてる。
あとは例えば人を気にかけることが出来るようになった。一緒で、気にかけることが出来なかった自分はもう有り得ない。人を気にかけるということを考えなかったときの自分はもう居ないわけだよ。

ここで私はまあこんなもんかなで終わってもいいんだけど、そもそも前提としてもう一つ考えがなきゃ成り立たない考えだと思うんだよね。前提が基本でこれが応用っぽい雰囲気があるようなないような笑。
その基本的な考えがなきゃただの屁理屈になっちまわあね。背の話はまだそれだけで成り立つかなと思うんだけど、知識の話と自分の考え方の話はそうもいかないかなあと。どうして知らなかったときを失くして退化になるっていうことで、私としては何事にも善悪や良悪がないものとしての考えなわけです。定義の話。例えば主人公と戦う敵である相手はどうして悪かというところ。極端な話になれば人殺しが駄目で酷いものでやった人は悪い人だなんてどうしてそう決まる。自分の中の絶対の定義というのは他から影響されて取り入れるものじゃなくて、自分による思考の上で成り立てればそれがそうだと思う。尊敬している人に言われたことならばそれがそうであると思い込む。人格の問題もあるかもしれないね、人に流されるか否か。言われたことでもそうだと自分でその意味を納得して思ったならそれでもう自分の思考の上だと思う。でも何も考えずその通りだと鵜呑みにすればそこのはもう自分の意思は存在しない。その人を尊敬しているという強い念はあっても定義に対する考えはなし。定義は自分の思考を混ぜて作り上げるべきだと思う。それが意思があるということになると思うから。
なんかややこしい話になったけど、要は私としては知らないのが悪いことじゃないっていうことなんだよね。知っているのと知らないのでは違うと言う。知っていると納得出来る、知らないと納得出来ない、感じること全てが経験であるから別に悪いことじゃないと思うのよ。それが喜怒哀楽なんであれ損する出来事なんてないと、そういう考えだから知識と考え方の面でも私の中では成り立つ話だというね。何でも考えてみること、青になったら渡るのも廊下を走ってはいけないのも、自分が考えた上での行動であればと思ったりしているわけよ。
でも聞いたことを自分の意思の上に成り立たせるというのは結構難しいことで、そうだなと納得しているつもりで実は全然していない。自身でそうだと感じることを経験しないとさっぱりただの絵に描いた餅でしかないと思うのよ。だから実際に経験するのはもちろんだけど、でも今までにあったことを思い返せばたぶん一個ぐらい見つかるんだよね。これから経験するのを待つよりも過去を思い出してそういえばそうだったなあと納得するほうが早いと思うよ。何事も忘れず大事にしましょうなんて、先に役立つことは多いもんだ。これも私が経験したことであって云々書いてあっても自分で遭遇してみないとわからないもんだと思う。人によって感じることは違うし、もしかしたらもっと別の形で現れてるかもしれないし現れるかもしれない。日々発見そういうことですかね笑。

何の話だったか、成長と退化?はもうおしまいでいいのか。これで終わりかな、途中でやっぱり自分でもこんがらがってきたけどまあこれでいいことにしとこ。Landmarkからちょっと派生した話である気がしなくもないね。あれちょっとは定義の話入ってたかな、意思が主だったと思うけど。あの話じゃ意思と定義は近いところにあるってことかな。
ちなみに一番簡単な定義としては好き嫌いだよね。味覚って人によって違うし、ピーマン=嫌い、素敵な自分限りの定義ではありませんか笑。特に他の人に影響されることもほぼないしこればっかりはさすがに確立されたもんだと思うよ。まあ人間には思考も感情もあるんだから、こう聞いたからなんか嫌いじゃなくなったとかはあると思うんだけどね・・・味覚で全てだし、まあほとんど自分のもんでしょ。寒いとか気持ち悪いとか感覚によるものはほとんどそうかな。ただ育ってきた過程で全部定義されるものだから、人によって極僅かにでも違うものだと思うけど。酸っぱいと渋いの中間はどこであるかとか。なんか逆にわかりにくいってこれ。笑
会話するときに、自分の定義と相手の定義の違いがわかれば色々と考慮出来るし楽しいもんだよ。普通は誉め言葉にもなると知ってるけど、私の可愛いという言葉の定義はそんないい位置にないし。使うときは基本的に考えなしなのを可愛いもんだとかそんなんだから。(・・・)例えば冷たいってのだって辞書で調べたからこういうことかって納得したもんじゃなくて、全部生きてきた上で納得したことなんだから人による違いは出てくる。有名な言葉だからこそ違いなんてほぼないだろうけど、ややこしい言葉になるときっと違うもんだよ。だからこそ言葉は慎重に選べってね。自分の価値観じゃなくて客観的に見てこれを聞いて相手がどう思うか、そういうことかなあ。案外難しいことだと思うよ。

好き、冷たい、辛い、嬉しい、鬱陶しい、感じたことに当てはまる言葉があるから人間は進化したもんだよね。言葉って偉大だね・・・自分の中で自由に変えれるんが面白いところかなあ。
ぐだぐだになったところで終わっておく。笑
Oh,tomato! ... design by totoko, image by mozneko
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