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お父さんの骨拾ってきました。ほねほね言ってたらお母さんにお骨でしょうがと笑われましたがまあいいじゃないか骨は骨。(・・・)せっかく与えられた機会だとまじまじと見てきました。箸を持つ手が震えなかったのはお母さんが震えていたための義務感からかなあ。
やっぱりぼろぼろ泣きました。すっきりしたとか書きつつやっぱ泣きまくった。二日連続で目腫れてたぶん明日も起きたらやはり目の細い私が鏡の前に鎮座してんだろ、最初から細いとか言わないでくださいよ。もう糸みたいな目になっちまってるんですよ。
ほんまお父さんはすごいよなあ、お通夜に来てくれた人が二百五十人、葬式に来てくれた人が二百人ってすごくねえ?スターみたいだ、生涯自慢の父だ。笑
どうしても大好きです。でも昔を思って泣くことはぼちぼちあると思うんですが現実見てくさ、今の家族を大事にするよ。
私の中でお父さんが30%をしめてたわけでもない。どのくらいを占めてるのってったら自分の考えが100%だと思うんよ。
けどさりげなく色んなところに関係してたんだろうなあ。お父さんが居なくなったことで現れてくる良いところ、お父さんが居なくなったことで隠れていく良いところ。現れてくる悪いところ、隠れていく悪いところ。どれが多いのかなんてわかるわけもないけど、とりあえずこれから出来てくものに生きてるお父さんが関与することはないんだなあ。今の私は、大げさに言えばお父さんが地盤みたいなもんだと思う。大げさに言わなくてもお父さんが関節みたいなかんじたと思う。なんて言ったらいいのかわかんなくて意味不明な表現になってるけど、それだけお父さんに憧れたときとか感動させられたとき、笑わせてもらったこととか怒られたことが多かった。ふと完璧に見せつつ、覗けばだらしないとこ丸見えってお父さんが誰よりもすごい気になってる。人は深いところを見ないといけないね、贔屓じゃなくお父さんもお母さんもすごいなと思うんだよ。こういう人になりたいって思うわけよ、やばいくらい親に恵まれてんのかな?笑
これからはもう自分の考えで自分が出来てくことになるんだろうなあ・・・迷ったときはお父さんならどうするかなって考えそうだけど、考えるだろうけど。
大きくなってからはお母さんじゃなくてお父さんと居た時間が長いから、居なくなると影響は結構大きいかもしれないなあ。その分の準備期間をくれたわけかな、闘病生活の一年間は。お母さんも同じ見解してる。
そう、なんだかんだで一気に悲しむところがなかったんよ。
去年、発症したときも前みたいに話すこともなく笑うこともなくなったけど、でも死んだわけじゃなくてちゃんと身体は生きている。それも死ぬ、ってところまでいったもんだから生き伸びたときの嬉しさが大きくて、そう涙が出ることもなかったと思う。そうやって一年過ごして。
今回も、本当に死んでしまったわけだけど。明るく話すお父さんが居たわけじゃなかったから、やっぱり悲しみが分散されたかんじ。火葬のときも、病理解剖をしたものだからお父さんと言っても脳もなければ内臓もない。中には綿花が詰まっているからほんとうに見た目だけ。そう思うと身体がなくなってしまうのにもそう悲しむことはなかった。
なんか悲しむところの重心、理由となる部分が全部曖昧にぼやけたかんじになったなあと思う。私の考え方がそうしている部分もある気がするけど、これもお父さんが図ったんだったりしてね。お父さんどこまでわかってたんだろうね。
それでも泣いたがな。お通夜と葬式を通しては、親族でも一番に痛いぐらいに。笑
ちょっと前に十六歳でお父さんの痰を吸引するとは、とか書いた気がするんだけど・・・十六歳で親の骨拾うことになるとは思わなかったなあ。
お父さんが死んで、その長女なので下顎も運んだし頭蓋骨も運んだ。下顎を持ったときに、パリッと音を立ててぼろぼろと崩れた前歯がいつまでも鮮やかに残ってそうです。忘れなさそう。
見せて笑った写真は歯磨き粉のCMにでもありそうだ、異常に綺麗で羨ましかったお父さんの歯。
ちょっと真面目に勉強してみるよお父さん、何度言ったかわかんないけど今度はなんか出来る気がする。