From ground to sky Oh,tomato!
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私は友達が少ない寂しい奴だと思ってたんだけど・・・よくよく思い返してみればそんなことはないのかもしれない。
仲良しグループでかっちり固まってたクラス内で、どうも私は少しおかしな位置にいたんじゃないのかと。もちろん昼ご飯とか移動教室のときは仲良い四人程で固まってたけど。私が一緒に居たのはまあ、所謂虐められる人たちの中で、グループ同士も係わり合いがないだけじゃなく多少欝陶しく思われてるようなところだった。もちろん私も一部の男子からは泣かされそうになったことまであるし、そんなんだから虐められてる人になんて虐めの対象になってない人は普通は寄り付かないのね。事実、一緒に過ごしてるグループの友達はグループ内の友達しかいなかった。
そんな中で、私は一緒に昼ご飯を食べてないクラス内の友達もいたから。皆がグループで自己防衛のように固まる中で、同じグループじゃないのに仲が良い人がいるのは珍しかったのね。席が近かったりしたら、お互いにいつも一緒にいる友達のとこにいかず話し込んでたりするの。私の肘尖ってんだぜウラァって突いてきた(痛かった)水星人はエグザイルやオレンジレンジのファンだったし、掃除当番一緒の富士山とは席が近くなることもようあったしほんとに話してた。勉強もスポーツもトップクラスでバスケ部の富士山が、体育のバスケの試合中にはとさん上手い!て声上げて応援してくれたんとかやばいくらい嬉しかったからね笑。ふとしたときに、気に入らない人の愚痴をこぼしてくれたりしてた。私も、席替えの度に近くに なって、その周りに相手のグループの子がいなかったらなあとか考えてた。
まあ他にもちょろちょろと仲良い人はいたし、その相手を通して他のグループの面々と笑って話をすることもあった。もちろん他のグループ同士の人たちでも話してることはあったけど、仲が良い、と言える私はちょっと特異だったんじゃないかと思う。
昼ご飯を一緒に食べる友達、しか考えてなかったけど、実は楽しく話を出来る人はたくさんいたなあと、年賀状の宛先を考えてふと思い出して。なんだか幸せだなあと思ったんだよ笑。
自分で言うのもなんだけど、たぶん、普通に育っていれば私はクラスの中心にいるような性格になっていたと思う。だってテストの点は悪くなかったしスポーツも出来た。空気が読めないわけじゃない(だろう)し、人に優しくすることも冷たくすることも出来た。至って平穏に育っていれば、純粋にそんな明るい性格になっていただろうなと予想が立てられるの。きっと友達もギャーギャーと煩い人たちで、その中で私も笑ってたんじゃないかなと思うんだ。
でもそうはならなかった。きっと、辿れば全ての原因は病気に行き着くだろうね。先天性の足の病気はごつい装具を付けなくちゃいけなくて、四歳の頃に広島から越して、足に変なものをつけてる私は正直な子どもたちにはみ出されることも少なくなかった。気に入る気に入らないが芽生えてくる時期だし、保育園で私と仲が良い子は片手で数えられるくらいだった。その頃から、寂しい、悲しい、という感情が他人より早く発達したんじゃないかなあと思う。保育園で仲良くなった子が一人いたけど、その子とは小学校に上がる際に離れ離れ。
他の子がどうだったのかは知らないけれど、とりあえず私には友達がいなかったね。小学校一年二年の出来事がこれっぽっちも思い出せないの。そして二年の終わりに手術のために入院して三年の冬に戻ってきた。車椅子に松葉杖を使っていたから、先生の言葉か純粋な助け合いの精神か、不便な障害者だと色んな人が話かけてくれた。でも三年の頃は結局誰かと仲良くなった記憶がなくて、出来事もほとんど覚えてない。
それからの四年生が臆病な性格を引き出した一番の原因だろうね、私一人を相手にすごい虐めにあった。とても頭がよかった俺様の子に毎日怯えてた。しかもその人とは出席番号が前後だから関わることも多くて、怖くて学校なんて行きたくなくて、本当に空気になりたかった四年生。徹底的に視界に入らないよう目立ちたくなくて、我慢して、でも我慢出来なくて、授業中に手を上げることが出来なかった私は教室で漏らしたことがある。最後の最後に先生に告げてトイレに行こうと思ったら、あと五分だから我慢出来ない?って言われて行けなくて、限界がきてしまった私は、黒板の前、あちゃーと言う先生の前でクラスの視線を浴びながらボロボロに泣いてた。後日、俺様の子がニヤニヤ笑いながら話しかけてきたのも覚えてる。 四年生は色んなことを思い出せるよ。
五年生は俺様の子と違うクラスになって、仲良しになった子も結構いたし、よく話した男子相手にたぶん初恋なんてものもした笑。六年生になるときは四年生を思い出して、先生にあの人と一緒にしないでって頼み込んだから大丈夫だったし、話すと楽しくて仕方がない好きな男の子とも二年連続で同じクラスになったね。
正直、周りに好きなんだろと言われてそんな気になってたけど、ほんとはほんとに大好きな友達だったんじゃないかと思う。それともこの年の恋がそんなもんだってことかなあ…。この男の子とは中学で一度も同じクラスにならなかったから自然と話さなくなって、でも受験で同じ前期の公立に落ちて同じ後期の公立に受かってたのに笑ったよ。さすがテストの点を毎回争ってただけあるわ笑。妹もその男の子の弟と同じ年だったし、実は家も近いけど、まあ話すことはなかった。
小学校限りだったけど楽しかったよ。つまんないことで言い争ったり、腕相撲で(相手が)顔真っ赤にしたり(力のあった私)、ポケモンの絵描いてあてっこしたり、今でも一番好きな男子だね、思い出は綺麗だ笑。実際に今でも純粋で仲良くなるまでは少し人と話せないシャイボーイみたい。もし初恋だったなら、素敵な初恋をしたと思うよ。髪の毛さらさらのどっちかってーと可愛い顔で頭もよかったしスポーツも出来る奴だった。高校で女の子と歩いてるの見たけど幸せになるといいね笑。
五年生は廊下ですれ違うことを気にしながらも至って平凡に過ごしてた。六年生で覚えてるのはその男の子と、ドッヂボール。とにかく休み時間も放課後もドッヂ。なんかもうドッヂ魂だった。
水星人と仲良くなったのもこれで、奴の不思議な投げ方から飛び出す反対回転の球は素晴らしい落ち具合を見せる強敵であった。(不思議なことにたまに上がったりもした)クラスの一部の男子と女子でやってて、線を引いたために靴は擦り減ったし、私の球はもっぱら「(苗字)砲」と呼ばれた速球であった。自分じゃようわからんが力があるからだろうね、とにかく速度と威力のあるストレートで当ててたよ。外野に回すのも軽々回せてた笑。足の関係ない球技は出来るしほんとにドッヂジャンキーだったよ。小学校五年生六年生は平和だったと言えよう。
中学校は冒頭通りだなあ。クラス内でグループが作られてやっぱり虐められて。アンソロジーなるものを買ったのもこのときだよ、アンソロジーが何だか知らないまま買ったしね!笑えね!(キルゴンとレオクラだった。既に処分済み・・・)そして中身を良く理解してないまま友達に貸してたというね!笑えね!笑
ちなみに、たぶん二人目に惚れたのは富士山。(レズだよ笑)ほんとに話してて楽しかったんだよ。女子の中心的な存在だった富士山は、思い返せばほんとに良く出来た賢い人だった。良く思い出してみれば周りにいる人は男子も女子もたくさんいたけど本当に仲が良い子は選んでたんかな。人のことを考えられない人とは深いようには見えなかったね。
中学校は制服で、スカートだから私の装具をつけた足は常に丸だし。掃除のときに、ある男子が私の足はどうしたのかとしつこく聞いてきた。長々と説明するのも面倒だと黙り込んだ私に男子は何度も質問してきてて、そこで富士山がいい加減にしろよって男子を睨んだ。掃除の女子メンバーは三人で、もう一人の一緒にご飯食べてる女の子も庇ってくれたんだけど、富士山が堂々と言ってくれたのがほんとに嬉しかったんだよね。掃除の時間がおかしなくらい待ち遠しかった毎日のことだよ笑。
他人から見られることを考えると私なんかって思ってしまうけど、やっぱり仲良くしてくれた人がいるように、きっと私にもいいところが何かあるんじゃないかなって思うよ。友達少ないなんて言っちゃいけないね。振り返ってみればこんなに良くしてくれた人達がいるっていうのにさ。クラスの中心の人気者に憧れていたけど、見た目がおかしくても、虐められてても、見てくれる人はちゃんといたんだよ。私もその人たちが大好きなんだからさ。
・・・わからないを含んだ沖田の逆トリ連載を書きたいと考えてた。それが、これを書いてるうちにちょっとつかめた気がする。思い返してみれば今までに書いた話の中でも答えを出してるんじゃ?気が向いたら読み返してみようかな。
大切な友達はどうやって出来るのかっていう、ちょっとした、私のような子の心理の話が書きたくて。
仲良しグループでかっちり固まってたクラス内で、どうも私は少しおかしな位置にいたんじゃないのかと。もちろん昼ご飯とか移動教室のときは仲良い四人程で固まってたけど。私が一緒に居たのはまあ、所謂虐められる人たちの中で、グループ同士も係わり合いがないだけじゃなく多少欝陶しく思われてるようなところだった。もちろん私も一部の男子からは泣かされそうになったことまであるし、そんなんだから虐められてる人になんて虐めの対象になってない人は普通は寄り付かないのね。事実、一緒に過ごしてるグループの友達はグループ内の友達しかいなかった。
そんな中で、私は一緒に昼ご飯を食べてないクラス内の友達もいたから。皆がグループで自己防衛のように固まる中で、同じグループじゃないのに仲が良い人がいるのは珍しかったのね。席が近かったりしたら、お互いにいつも一緒にいる友達のとこにいかず話し込んでたりするの。私の肘尖ってんだぜウラァって突いてきた(痛かった)水星人はエグザイルやオレンジレンジのファンだったし、掃除当番一緒の富士山とは席が近くなることもようあったしほんとに話してた。勉強もスポーツもトップクラスでバスケ部の富士山が、体育のバスケの試合中にはとさん上手い!て声上げて応援してくれたんとかやばいくらい嬉しかったからね笑。ふとしたときに、気に入らない人の愚痴をこぼしてくれたりしてた。私も、席替えの度に近くに なって、その周りに相手のグループの子がいなかったらなあとか考えてた。
まあ他にもちょろちょろと仲良い人はいたし、その相手を通して他のグループの面々と笑って話をすることもあった。もちろん他のグループ同士の人たちでも話してることはあったけど、仲が良い、と言える私はちょっと特異だったんじゃないかと思う。
昼ご飯を一緒に食べる友達、しか考えてなかったけど、実は楽しく話を出来る人はたくさんいたなあと、年賀状の宛先を考えてふと思い出して。なんだか幸せだなあと思ったんだよ笑。
自分で言うのもなんだけど、たぶん、普通に育っていれば私はクラスの中心にいるような性格になっていたと思う。だってテストの点は悪くなかったしスポーツも出来た。空気が読めないわけじゃない(だろう)し、人に優しくすることも冷たくすることも出来た。至って平穏に育っていれば、純粋にそんな明るい性格になっていただろうなと予想が立てられるの。きっと友達もギャーギャーと煩い人たちで、その中で私も笑ってたんじゃないかなと思うんだ。
でもそうはならなかった。きっと、辿れば全ての原因は病気に行き着くだろうね。先天性の足の病気はごつい装具を付けなくちゃいけなくて、四歳の頃に広島から越して、足に変なものをつけてる私は正直な子どもたちにはみ出されることも少なくなかった。気に入る気に入らないが芽生えてくる時期だし、保育園で私と仲が良い子は片手で数えられるくらいだった。その頃から、寂しい、悲しい、という感情が他人より早く発達したんじゃないかなあと思う。保育園で仲良くなった子が一人いたけど、その子とは小学校に上がる際に離れ離れ。
他の子がどうだったのかは知らないけれど、とりあえず私には友達がいなかったね。小学校一年二年の出来事がこれっぽっちも思い出せないの。そして二年の終わりに手術のために入院して三年の冬に戻ってきた。車椅子に松葉杖を使っていたから、先生の言葉か純粋な助け合いの精神か、不便な障害者だと色んな人が話かけてくれた。でも三年の頃は結局誰かと仲良くなった記憶がなくて、出来事もほとんど覚えてない。
それからの四年生が臆病な性格を引き出した一番の原因だろうね、私一人を相手にすごい虐めにあった。とても頭がよかった俺様の子に毎日怯えてた。しかもその人とは出席番号が前後だから関わることも多くて、怖くて学校なんて行きたくなくて、本当に空気になりたかった四年生。徹底的に視界に入らないよう目立ちたくなくて、我慢して、でも我慢出来なくて、授業中に手を上げることが出来なかった私は教室で漏らしたことがある。最後の最後に先生に告げてトイレに行こうと思ったら、あと五分だから我慢出来ない?って言われて行けなくて、限界がきてしまった私は、黒板の前、あちゃーと言う先生の前でクラスの視線を浴びながらボロボロに泣いてた。後日、俺様の子がニヤニヤ笑いながら話しかけてきたのも覚えてる。 四年生は色んなことを思い出せるよ。
五年生は俺様の子と違うクラスになって、仲良しになった子も結構いたし、よく話した男子相手にたぶん初恋なんてものもした笑。六年生になるときは四年生を思い出して、先生にあの人と一緒にしないでって頼み込んだから大丈夫だったし、話すと楽しくて仕方がない好きな男の子とも二年連続で同じクラスになったね。
正直、周りに好きなんだろと言われてそんな気になってたけど、ほんとはほんとに大好きな友達だったんじゃないかと思う。それともこの年の恋がそんなもんだってことかなあ…。この男の子とは中学で一度も同じクラスにならなかったから自然と話さなくなって、でも受験で同じ前期の公立に落ちて同じ後期の公立に受かってたのに笑ったよ。さすがテストの点を毎回争ってただけあるわ笑。妹もその男の子の弟と同じ年だったし、実は家も近いけど、まあ話すことはなかった。
小学校限りだったけど楽しかったよ。つまんないことで言い争ったり、腕相撲で(相手が)顔真っ赤にしたり(力のあった私)、ポケモンの絵描いてあてっこしたり、今でも一番好きな男子だね、思い出は綺麗だ笑。実際に今でも純粋で仲良くなるまでは少し人と話せないシャイボーイみたい。もし初恋だったなら、素敵な初恋をしたと思うよ。髪の毛さらさらのどっちかってーと可愛い顔で頭もよかったしスポーツも出来る奴だった。高校で女の子と歩いてるの見たけど幸せになるといいね笑。
五年生は廊下ですれ違うことを気にしながらも至って平凡に過ごしてた。六年生で覚えてるのはその男の子と、ドッヂボール。とにかく休み時間も放課後もドッヂ。なんかもうドッヂ魂だった。
水星人と仲良くなったのもこれで、奴の不思議な投げ方から飛び出す反対回転の球は素晴らしい落ち具合を見せる強敵であった。(不思議なことにたまに上がったりもした)クラスの一部の男子と女子でやってて、線を引いたために靴は擦り減ったし、私の球はもっぱら「(苗字)砲」と呼ばれた速球であった。自分じゃようわからんが力があるからだろうね、とにかく速度と威力のあるストレートで当ててたよ。外野に回すのも軽々回せてた笑。足の関係ない球技は出来るしほんとにドッヂジャンキーだったよ。小学校五年生六年生は平和だったと言えよう。
中学校は冒頭通りだなあ。クラス内でグループが作られてやっぱり虐められて。アンソロジーなるものを買ったのもこのときだよ、アンソロジーが何だか知らないまま買ったしね!笑えね!(キルゴンとレオクラだった。既に処分済み・・・)そして中身を良く理解してないまま友達に貸してたというね!笑えね!笑
ちなみに、たぶん二人目に惚れたのは富士山。(レズだよ笑)ほんとに話してて楽しかったんだよ。女子の中心的な存在だった富士山は、思い返せばほんとに良く出来た賢い人だった。良く思い出してみれば周りにいる人は男子も女子もたくさんいたけど本当に仲が良い子は選んでたんかな。人のことを考えられない人とは深いようには見えなかったね。
中学校は制服で、スカートだから私の装具をつけた足は常に丸だし。掃除のときに、ある男子が私の足はどうしたのかとしつこく聞いてきた。長々と説明するのも面倒だと黙り込んだ私に男子は何度も質問してきてて、そこで富士山がいい加減にしろよって男子を睨んだ。掃除の女子メンバーは三人で、もう一人の一緒にご飯食べてる女の子も庇ってくれたんだけど、富士山が堂々と言ってくれたのがほんとに嬉しかったんだよね。掃除の時間がおかしなくらい待ち遠しかった毎日のことだよ笑。
他人から見られることを考えると私なんかって思ってしまうけど、やっぱり仲良くしてくれた人がいるように、きっと私にもいいところが何かあるんじゃないかなって思うよ。友達少ないなんて言っちゃいけないね。振り返ってみればこんなに良くしてくれた人達がいるっていうのにさ。クラスの中心の人気者に憧れていたけど、見た目がおかしくても、虐められてても、見てくれる人はちゃんといたんだよ。私もその人たちが大好きなんだからさ。
・・・わからないを含んだ沖田の逆トリ連載を書きたいと考えてた。それが、これを書いてるうちにちょっとつかめた気がする。思い返してみれば今までに書いた話の中でも答えを出してるんじゃ?気が向いたら読み返してみようかな。
大切な友達はどうやって出来るのかっていう、ちょっとした、私のような子の心理の話が書きたくて。
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